念仏

昨年末に不幸があったため、以後のこの数週間、幾度もお経、念仏を唱える機会がある。

うちは浄土宗なので、当然基本は『南無阿弥陀仏』だが、いろんな念仏があって、逮夜の法事はいつも小一時間かかる。
終盤の下りで出てくるのが『一枚起請文』。法然上人(法然の諱:いみなが"源空")自身が綴った遺言で、口語で書いてあるので解りやすい。
もうなんとなく内容を覚えてしまったけれど、最後の方で出てくる『邪義』を聞くと北斗の拳のジャギ兄さんを思い出してしまう・・・・。^^;)

◆一枚起請文全文◆
唐土(もろこし)我朝(わがちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そう)わず。
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候(そうろ)うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

建暦二年正月二十三日 大師在御判